この記事は編集途中です。
この記事は、私の脳味噌の腐敗(ボケ)防止の一環として、昔のことを思い出しながら書いているものです。どこまで思い出せるかは、私の一旦は腐りかけた脳味噌次第であり、いつまで書き続けられるかは、虚血性心疾患で意識を喪失し救急車に体験搭乗した私の事ですから先のことは見通せません。
一応、思いついたことをタイトルに書いておき、少しずつ思い出したり、写真を探したりしながら記事を更新していこうと思います。
従って、期限は切れませんが、当分の間、編集途中の状態での公開となりますのでご了承願います。
このところ、認知症状が進行したのか、この記事が書きかけであることをスッカリ忘れていました。自分では、脳味噌は腐っていないし、認知機能は衰えていないと確信をしていますが・・・
歳には逆らえません。(2017/09/15)
2017年1月24日、25日は、西日本も大雪で、車の立ち往生のニュースが1日中ながれています。
何故か、雪のニュースを見ると、岐阜県の垂井町の工場に勤務していた頃のことを思い出します。
私は、昭和35年(1960年)に会社に入り、41年間勤務した平成13年(2001年)に会社を卒業しましたが、何か新しい事を始めるとなると工場間の転勤をさせられ、岐阜県垂井町の工場へも勤務しました。
岐阜県垂井町には2つの工場があり、両方の工場へ、2回にわたる転勤で、仕事の内容は異なりますが、2つの工場で過ごしました。
垂井町の工場に勤務したのは、2回の通算で約13年間。会社勤務の31%です。
会社を卒業後に垂井町の街を訪れ、勤務時代の同僚や友人に会ったりしながら、垂井の街を、一昔前に住んでいた頃を思い出しながら2回ばかり歩いてみました。
その時の様子は、下記の記事で紹介していますので、時間の取れる方はご覧下さい。
1回目は2006年10月14日、航空自衛隊岐阜基地の航空祭に行く前日に立ち寄りました。
2回目は2009年5月24日、同行者が垂井の友人に会いに行くとのことで、お供をして行き、翌日は私が好きな航空機の写真を撮るために中部空港を回ってきました。
垂井町にお住いの方には申し訳ございませんが、冬になると垂井町で生活していた頃のことが頭に浮かんできますので、一旦は腐りかけた脳味噌の片隅に残っている間に、指先と脳の運動のためにメモしておくことにします。・・・先日も、掛かりつけ医で認知症の検査をされた後期高齢者の一員になりましたので、どれくらい思い出せるか判りませんが、思い出し次第追加していきます。
1977年(昭和52年)~1982年(昭和57年) 岐阜県不破郡垂井町に住んでいた頃の思い出
この当時の写真は35mmのネガフィルムで残っているのですが、なにしろ撮影枚数が多くて探し当てるのが難しいことと、フイルムが変色して黄色っぽくなっていますので、写真は焼き付けしたものをスキャナで取り込んだものを使用しています。
写真は少ないですが、思い出したことをダラダラと、思い出した順に書いておきます。
住んでいた所は?・・・住んでいた家は無くなっています
下のマップの工場の隣でした。
垂井の泉へ金魚飼育用の水汲みに行っていました
岩国の家の庭には池を掘って鯉を飼っていたこともあり、社宅はあまりにも殺風景なため、せめて金魚でも飼おうと衆議一決。
垂井駅前のショッピングセンターで飼育箱を3つ購入。(これらの飼育箱は岩国へ持ち帰り、今でも、カブトムシやアゲハの幼虫飼育に活躍中。)
金魚の飼育箱に使用する水は、水道水をそのまま使うのは金魚に申し訳ないので、泉へ水汲みに通っていました。
東海道本線の下り線専用の新垂井駅がありました
住んでいた頃は、JRの垂井駅~関ヶ原間については、上り、下り2本の線路がありましたが、上りは「東海道本線」。下りは「垂井線」でした。
「東海道本線」の下り線は垂井町の北方に単線の「新垂井」駅があり、ここを経由していました。
垂井駅から関ヶ原駅までは急こう配の登り坂。
昔の蒸気機関車の頃は、この登り坂に太刀打ちできないとのことで下り専用の線路を敷いたと聞きました。
この写真は、1981年7月25日に、東海道本線の下り専用線を、大垣駅から新垂井駅に向かって走る、EF5861が牽く「つばめ号」です。
岐阜、名古屋方面へ行った帰りは、垂井経由か、新垂井経由かを確認して乗車しないと、新垂井駅駅から垂井駅までの無駄な時間を取られていました。
そういえば、新垂井駅~垂井駅間はバスが走っていましたよね。
「新垂井」駅は、2回目の垂井の工場勤務の前年頃だったような気がしますが、廃止されましたよね。
会社の「歩け歩け運動」で、関ヶ原から垂井まで歩きました
会社の「歩け歩け運動」で、家族全員(とは言っても4人ですが)で参加して、関ヶ原から垂井まで歩きました。
垂井から関ヶ原まではJRの電車で。もちろん、乗車券代は会社持ちです。
関ヶ原駅から、徳川家康の陣の跡を通って、東軍の陣地跡を回って垂井へ。
徳川家康が座った石に座ってみました。
我が家の息子どもは小学1年と3年だったと思いますが、全員が落伍せずに帰り着きました。
垂井の銀座通りで、「曳やま」まつりを見ました
写真の曳やまのミニチュアは、垂井駅が橋上化される前の、元の駅舎の改札口の傍の売店で買ったものです。(2回目の垂井の工場勤務は単身赴任のため、3週間ごとに垂井~岩国間を往復していました。)
このミニチュアは私にとっては珍品中の珍品。既にこのサイトで紹介済みだと思ったのですが、どこを探しても見当たらないので、2017年1月27日に写真撮影しました。
この他の写真は、下記の記事で紹介しています。
ところで、5月の連休は岩国へ帰省していましたが、一度だけ帰省を諦めて、垂井の社宅で過ごしました。
この時は、豪華な3つのやまと子供歌舞伎を見せてもらいました。
社宅の近所の子供たちも子供歌舞伎の練習をしたり、4月は賑やかだったですね。
南宮大社へ初詣
正月の連休は岩国へ帰省したかったのですが、列車の大混雑を避けたいためと、岩国の我が家では生活できる状態でないため、正月は垂井で過ごすことにしていました。
社宅から南宮大社までは歩いて20分も掛からない(と思います)ので、1月1日の0時になったら南宮大社へ初詣に出掛けていました。
夜間歩行ラリーで、宮代地区を歩き回りました
あの当時は、あちらこちらの会社で「チームワーク」の大切さが叫ばれ、私がいた工場でも「夜間歩行ラリー」を行なっていました。
「チームワーク」だけでなく、「既成概念」の打破も叩き込まれました。
朝倉会館を利用して「0泊2日」か、「0泊3日」の行事。
「コマ図」と「懐中電灯」を頼りに、宮代地区を歩き回りました。
最初は歩きましたが、何回かは役員の手伝い。
皆の姿を見せてもらいました。
56豪雪で、5日間、工場の屋根の上に上がって雪下ろしをしました
昭和56年ですが、毎日雪が降り続き、工場のV字型の屋根は積雪で平らに。
工場の天井の1m x 2mの板は2枚落下するし、隣の関ヶ原の会社の体育館の屋根が落下したとの情報が入り、工場の屋根の雪下ろしをすることに決定。
月曜日から金曜日までの5日間、朝の始業時から午後まで、毎日、工場の屋根に上っていました。
56豪雪の時は、会社の除雪機を借りて、社宅周辺の道路の除雪もしました
56豪雪の時ですが、社宅周辺の道路は、子ども達が通学するための1人がなんとか通れる程度に雪かき。
プロパンガスの配達も難しいし、通学、通勤の歩行も難しいため、会社の除雪機を借りることにして、国道21号線の端っこを通って社宅へ。
除雪機を貸すからには、地域社会に役立つようにと言われ、社宅周辺の道路を広い範囲で除雪しました。
夕方17時頃にエンジンの掛かった除雪機を工場から持ち出して、除雪を済ませて工場へ返したのは21時でした。
翌日、近所の奥さんが「昨夕は、垂井町役場の方が除雪してくれました」と言われましたが、「実は、私がやりました」とは言いだせませんでした。
56豪雪の時は、岩国から持って行った車の塗装が剥がれました
56豪雪の時は、社宅の敷地内に置いた車の屋根には雪が積もるばかり。
屋根の上に積もった雪の重みで車が歪んでいるのか、ドアは開かない状態。
雪で車には乗れないので、ドアが開かなくても何ら支障はないのですが、車の屋根が永久に歪んだままになったら大金の出費になるため、車の屋根の雪は、車と生垣の間に落としていました。
落とした雪は融けずに固まるばかり。
1ケ月近く経っても車と生垣の間の雪が融けないので、買い物に出掛けようとしてバック。
これが運の尽きだったのですね。
岩国から垂井へ運んだ車は中古で購入したもので、塗装も年老いていたものと思います。
買物から帰ってから車の左側を見たら、なんと哀れな有様。
透明なコーティング部分がバリバリに剥がれて、みすぼらしい姿になっていましたので、会社へ出入りしていた車やへ頼んで、中古車を探してもらいました。
余談ですが・・・
1982年(昭和57年)に岩国の工場へ帰りましたが、岐阜ナンバーの車には長い間乗っていました。
そうこうするうちに、名神高速道路の養老SAで射殺事件が発生。
全国に犯人捜査の手配が出され、岐阜ナンバーの怪しい車が岩国市内を走っていると警察へ情報提供があったらしく、会社の駐車場の出口で待つパトカーに検問。
「転勤で岩国へ帰ってきた」と言って、念のためにと免許証の裏に追記された岩国の住所をメモされて無罪放免。かと思ったら大間違い。
そのパトカーは、私の車が、我が家の駐車場へ入るのを見届けるまで付いてきました。
岩手地区の竹中半兵衛の陣屋跡へ行きました
不破の滝へ自転車で行きました
南宮山へ登りました
美濃国分寺跡へ自転車で行きました
2m x 1m の、鉄道模型(Nゲージ)のレイアウト(ジオラマ)を製作しました
時間の都合がついたので、2m x 1m(厚さ10mm) の合板を入手して、、鉄道模型(Nゲージ)のレイアウト(ジオラマ)を製作しました。
1982年(昭和57年)、岩国の我が家へ引っ越して帰る時、この様な物を運んでもらうのは無理だろうと思っていましたが、運よく、引っ越しの前日に、岩国の工場から垂井の工場へ荷物を運んで来る11tonトラックがあり、このトラックを引越用に回すとのこと。
引っ越しのために捨てる物は一切なし。
全てを岩国へ運んでもらうことになり、2m x 1m(厚さ10mm) の鉄道模型(Nゲージ)のレイアウト(ジオラマ)は、トラックの荷台に平置きして運搬してもらえました。
このレイアウト(ジオラマ)には、1/150で作った我が家の家もありますよ。
なお、このレイアウト(ジオラマ)は、2017/02/01現在、我が家の部屋の中に立てかけてあります。・・・大きすぎて、要る方が現れません。
1987年(昭和62年)~1995年(平成7年) 岐阜県不破郡垂井町と大垣市に住んでいた頃の思い出
垂井町に関することに限定して、思い出したことを順不同で書いておきます。
1987年(昭和62年)~1995年(平成7年)は、垂井町と大垣市の6ケ所で生活
1987年(昭和62年)~1995年(平成7年)は単身赴任でしたから、会社の都合で住み家は転々とさせられ、垂井町で3ケ所、大垣市で3ケ所、生活しました。
住所不定のため郵便物は迷子になることが多く、岩国の我が家を郵便物の宛先に固定しておきました。
従って、住民登録も岩国市のままでした。
大谷川が氾濫して、辺り一面が水浸しになったことがあります
一時期は大垣市長松町近くの一戸建てに住んでいたことがあります。
何年だったか忘れてしまいましたが、台風が岐阜県を通過するため、夜はテレビで台風のニュースを見ていましたが、そのうちウトウトとしたような気がしたと思ったら、玄関のドアを叩く音が・・・
ドアを開けてみたら、前の家の方が、「車が水に浸かるので早く移動させろ」とのこと。
既に水かさは30cmくらいありましたが、ポンコツ車を坂の上に移動させました。
家に戻って周りを見渡したら、辺り一面は大海原の状態。
家は道路より1mくらい土を盛り上げた所に建てられていたので、家の浸水の心配はありませんでした。が・・・・
当日は、岩国へ帰省する日でしたので、作業着を着て、荷物、服、靴などは大きなビニール袋に入れて頭の上に乗せて車へ行き会社へ出勤。
この姿を見て、近所の方から「逃げるんですか!」の声。
会社へ着いたら、家の水没被害の連絡が続々。
「1階は水没しているので助けに来てほしい」とのこともあり、舟を借りて救出に向かいました。
あの頃は国道21号線の綾戸口近くに「ヤオセイ(?)長松店」とか言った店がありましたが、近くの歩道橋周辺の水浸しの写真が新聞に掲載されていたのを覚えています。
この時の新聞記事は切り抜いて保存してあるはずですが、何処へしまい込んだのか思い出せません。
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